19世紀末から20世紀初めに活躍したウースターのペインターたち Ⅰ
ご存知のとおり、19世紀終わりから20世紀の初めにはウースターに今も名を残す絵付師がいます。それまでは、ウースターでは絵付師の名前は殆ど書かれることはありませんでしたが、19世紀の終わりからマスターペインターに作品にサインを入れることが許されました。 特に有名なのがハリー・ディビスとハリー・スティントンで、市場に出てきますが、高価でなかなか安く仕入れることが出来なくなってきています。もともと2人とも水彩画での評価を得て、ウースターの絵師になったため、絵付け師としての才能を持っていました。
まず、有名なスティントン家の家系の絵付師たちについて。
スティントンの家系は、絵付師の血筋で、ひい爺さんはヘンリーといい、グレンジャーズ・ウースター(ロイヤル・ウースターとのちに合併)で活躍した人で、息子のジョン シニア(1829-95年)もグレンジャーズにいて、風景画を得意としていました。彼は5人の子供を授かり、そのうちの、3人のジョン(ジュニア)、ウォルター、ジェームスが絵付師になりました。
その長男のジョン ジュニア(1854−1956年)はグレンジャーズからウースターに入社し、1903年から高原の牛の絵のスペシャリストとして活躍しました。
末っ子のジェームス(1870−1961年)もグレンジャーズを経て、ウースターに入社し、ゲームバード、キジの絵付けに才能を発揮し、ゲームバードの水彩画調の絵付けに偉大なる功績を残しました。
ジョン ジュニアも同じように子供たちを自分と同じようにウースターの絵付師に育て上げました。その中に次男のハリー・スティントン(1882 年−1968年)がいました。彼は生まれながら足が悪く、幼少のころはいろいろな病気のために入退院繰り返しました。しかし、サウスケンジントン(ロンドン)での絵の展覧会で、数々のメダルを取る才能がありました。ウースターに入り、長年父のジョン ジュニア スティントンの下で働き、同じ高原の牛のシーンを描き、より綺麗な紫色を描き出しました。趣味は魚釣り、チェスで、彼の偉大なる友人のハリー・ディビスとよく魚釣りに出かけたようです。彼はまた、 20世紀のイギリスの水彩画の1人として評されて、数々の作品を残しています。